人的資本開示における潮流 ~TCFD提言の4要素との関連~

2023/03/29 松尾 拓樹
TCFD
組織・人事戦略
人的資本
開示

1.概要

ESG投資の拡大を背景に、国内外の上場企業における非財務情報の開示が進んでいる。この状況を促進しているのが、国際的に標準化された情報開示の枠組みである。環境(Environment)については「気候関連財務情報開示タスクフォース(Task Force on Climate-related Financial Disclosures. 以下、TCFD)」が公表した最終報告書(以下、TCFD提言)を中心とした情報開示の国際的な枠組みが浸透しつつある。一方、社会(Social)の中核を担う人的資本においては、浸透の兆しが見え始めた段階にある。

具体的には、2022年には、国内の審議会等が公表した報告書等で、環境分野の枠組みであるTCFD提言に基づいた4要素である「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」を、人的資本の開示にも活用する提言が相次いだ。この4要素に基づく人的資本の開示は国際的な潮流とも整合しており、今後、標準的な枠組みになる可能性を秘めている。

そこで本レポートでは、国内外における人的資本開示に関する枠組みの現状を述べた後、TCFD提言に基づく4要素をどのように人的資本開示の方針として取り入れるか、海外の先行企業の事例も踏まえて論じていく。

2.人的資本開示に関する世界の動向

国内外の上場企業において、環境や人的資本など、非財務情報の開示が進んでいる。環境分野においては、2017年6月、金融安定理事会により設置されたTCFDによる「TCFD提言」が広く浸透し、気候変動に関する開示が世界的に促進されている。2022年10月にTCFDが発表した「ステータスレポート[]」によると、TCFD提言への賛同企業は全世界で3,800社を超え、世界1,400社以上の企業の統合報告書等について人工知能を用いて調査すると、80%の企業が推奨11項目のうち少なくとも1項目に沿って開示していた。

一方で、社会分野の中核を担う人的資本については、開示の枠組み策定が進んでいる段階である。2018年12月には人的資本の情報開示のガイドラインであるISO30414が発表された。また、2020年9月に世界経済フォーラム(WEF)が発表した白書「ステークホルダー資本主義の進捗の測定」では、ステークホルダー資本主義の進捗を測定するための具体的な指標例が示された。

諸外国の動きに目を向けると、米国では2020年11月に非財務情報に関する開示規則であるRegulation S-Kの改訂により人的資本の開示が義務化されたほか、英国でも同年1月に英国財務報告評議会(以下、FRC)から従業員に関する企業報告についての報告書[](以下、人的資本に関する報告書)が公開された。

3.人的資本開示に関する国内の動向

国内では、2020年9月に経済産業省が発表した「人材版伊藤レポート」を契機に、人的資本開示に関するさまざまな指針が公表されている。特に2022年は日本政府の人的資本開示に関する動きが加速しており、5月には「人材版伊藤レポート2.0」、6月には金融庁の金融審議会から「ディスクロージャーワーキング・グループ報告(以下、WG報告)」、8月には内閣官房の非財務情報可視化研究会から「人的資本可視化指針」がそれぞれ公表された。

WG報告および人的資本可視化指針では、TCFD提言の成功を受け、サステナビリティや人的資本の開示の枠組みにおいてもTCFD提言が掲げている4要素である「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」を活用することが提唱されている。

同様の提言は国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)の公開草案[]やFRCの人的資本に関する報告書とも整合しており、今後の人的資本に関する情報開示の標準的な枠組みとなる可能性を秘めている。

4.TCFD提言の4要素にもとづく人的資本の開示

国内においては、人的資本可視化指針がTCFD提言を参考に、人的資本における開示の4要素として「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」を掲げている。図表1の通り、適用範囲は異なるものの、サステナビリティに関する情報開示と方向性は同じである。

【図表1】 TCFD提言と人的資本可視化指針における開示4要素の相違

要素 TCFD提言 人的資本可視化指針
ガバナンス 気候関連のリスクと機会に関する組織のガバナンス 人的資本に関連するリスクおよび機会に関する組織のガバナンス
戦略 気候関連のリスクと機会が組織の事業、戦略、財務計画に及ぼす実際の影響と潜在的な影響 人的資本に関連するリスクおよび機会が組織のビジネス・戦略・財務計画へ及ぼす影響
リスク
マネジメント
気候関連リスクを特定し、評価し、マネジメントするために組織が使用するプロセス 人的資本に関連するリスクおよび機会を識別・評価・管理するためのプロセス
指標と目標 関連する気候関連のリスクと機会の評価とマネジメントに使用される指標と目標 人的資本に関連するリスクおよび機会の評価・管理に用いる指標と目標

(出所) 気候関連財務情報開示タスクフォース「最終報告書 気候関連財務情報開示タスクフォースによる提言」、非財務情報可視化研究会「人的資本可視化指針」を基に当社作成

諸外国においては、FRCが人的資本に関して、ISSBがサステナビリティ全般に関して、それぞれTCFD提言の4要素に基づく情報開示を提唱している。

【図表2】 人的資本に関する報告書とISSBの公開草案における開示4要素の相違

要素 FRC 人的資本に関する報告書 ISSB 公開草案
ガバナンス 取締役会が労働力問題をどのように考慮し、評価するか(どのような情報を注視しているか) 企業がサステナビリティ関連のリスクおよび機会をモニタリングおよび管理するために用いるガバナンスのプロセス、統制および手続き
戦略 労働力とは何か、労働力がビジネスモデルの成功にどのように貢献するか、労働力が戦略的な資産とみなされているか、労働力がどのように投資されているか、労働力の価値を最大化するためにどのような戦略変更が必要か 短期、中期および長期にわたり企業のビジネスモデルおよび戦略に影響を与える (affect) 可能性があるサステナビリティ関連のリスクおよび機会に対処するためのアプローチ
リスク
マネジメント
労働力がもたらすリスクと機会に対して会社がどのように対応するか 企業がサステナビリティ関連のリスクを識別、評価および管理するために用いたプロセス
指標と目標 労働力に関連して測定、監視、管理されているもの(労働力に限定せず、より多くのデータや財務に関連する情報を含む) サステナビリティ関連のリスクおよび機会に関する企業のパフォーマンスを長期的に評価、管理およびモニタリングするために用いられる情報

(出所) Financial Reporting Council(2020)”Workforce-related corporate reporting –where to next?-”、国際サステナビリティ基準審議会(2022)「IFRS S1号『サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項』[案]」を基に当社作成。Financial Reporting Council(2020)については当社が仮訳

5.英国企業の開示例~Pearson~

本章では、TCFD提言の4要素を踏まえた人的資本の開示例として、英国Pearson plc(以下、Pearson社)を取り上げる。

Pearson社はロンドンに拠点を置く世界最大級の教育サービスプロバイダーであり、全世界での従業員数は2万人を超え、ロンドン証券取引所・ニューヨーク証券取引所に上場している。かつてはFinancial TimesやThe Economist等の出版事業を展開していたものの、いずれも2010年代に売却し、現在は教育や学習に関連する事業に注力している。事業の特性上、同社は人的資本(People)を重要視しており、持続可能なビジネスのための3つの柱としても「Products」「Planet」に加え、「People」を掲げている。

同社における人的資本の開示状況についてはFRCの人的資本に関する報告書でも取り上げられており、Corporate Knights社が選定する「世界でもっとも持続可能な100社[]」にも2019年から4年連続で選定されるなど外部からの評価も高い。

同社の人的資本の状況が把握できる資料のひとつが、アニュアルレポートである。同社が2021に発行したアニュアルレポート[](以下、2021AR)では、TCFD提言の4要素を人的資本の開示の枠組みそのものとしては活用していないものの、記載されている内容は4要素と整合している。

図表3に、2021AR における掲載事項と4要素との関連性を示す。

【図表3】 Pearson社の2021ARにおける人的資本の開示状況

項目 掲載内容 掲載頁
ガバナンス
  • The Employment Engagement Network(≒従業員代表)が四半期ごとに社外取締役と会合、会合結果は取締役会に報告
  • タウンホールミーティング(従業員とCEO,CFOとの対話集会)を開催
  • パルスサーベイ(従業員の意識調査)の結果を取締役会で把握し、議論
  • 社外取締役がメンター制度に参加
87
戦略
  • 持続可能なビジネスの成功のための3つの柱の1つとして掲げている“People”について、非財務KPIとして「人材への投資(Investing in Talent)」「Inclusion & Diversity」を設定
  • 上述した2つのKPIは、自社の戦略を測定するための戦略的KPIである「Our six Key Performance Indicators」に組み込まれている
  • 2つの非財務KPIの進捗を測定するため、定量的なスコア(従業員NPS、スキルアップレベル、離職率など)をモニタリングするとともに、パルスサーベイなど定性的な洞察も収集している
40,48
リスク管理
  • 取締役会が特定した主要なリスクに、従業員関連のリスクが含まれている
  • 従業員関連のリスクに対応するためのアクションプランを定めており、四半期ごとに実施するパルスサーベイを通じて従業員のNPSをモニタリングし、重要な人材を確保するため、学習と能力開発に重点をおいている
  • 従業員関連のリスクの管轄をDivisional Presidents およびCHROと明記している
63
指標と目標
  • 非財務KPIである「人材への投資」のモニタリング指標として、新たなスキルの獲得やスキル向上を果たした従業員の割合、従業員NPSの改善度を開示している(具体的な目標数値は開示していない)
  • 非財務KPIである「Inclusion & Diversity」のモニタリング指標として、女性や多様な人種の従業員のリーダーシップサクセッションプランおよびリーダーシップ開発プログラムの参加割合を開示している(具体的な目標数値は開示していない)
  • 非財務KPIおよびそのモニタリング指標のほか、以下に示すように従業員関連の定量情報を豊富に開示している
  • ・従業員数(性別、雇用形態別、年齢別)、女性のリーダーシップ(役員・管理職・ITエンジニア等に占める割合、女性の昇進割合、ジェンダーペイギャップ)、民族・人種のダイバーシティ(全従業員や管理職に占める割合)、離職率、新規雇用率、勤続年数、健康プログラムの参加率、401kや自社株購入プログラムの参加率、WLBプログラムの参加率など

  • 性別については男女の区分けだけでなく、Non-binaryやNot disclosedなど、従業員本人の意向を尊重した開示をしている
26,232

(出所) Pearson plc “Annual report and accounts 2021”を基に当社作成

図表3の通り、Pearson社はTCFD提言の4要素を踏まえて人的資本に関する情報を開示しており、かつ4要素は独立しておらず、それぞれ密接に関連していることが分かる。

Pearson社の事例における、4要素ごとの開示のポイントは以下の通りである。

  • ガバナンス:従業員の声を経営に反映する機会を確保している。従業員の声を拾う手法は、従業員との直接的な対話やタウンホールミーティング、満足度調査(パルスサーベイ)など多様であり、取締役会にも報告されている。また、社外取締役が従業員との直接的な対話に参画することで、独立性・客観性を確保している。
  • 戦略:全社的な戦略KPIである「Our six Key Performance Indicators」[]に、「人材への投資(Investing in Talent)」「Inclusion & Diversity」といった人的資本に関する非財務KPIを組み込むことで、非財務の取り組みを全社統合的に推進している。
  • リスク管理:従業員に関するリスクを全社的リスクマネジメント(ERM)へ統合し、責任部署を定めたうえで、モニタリング結果を踏まえた課題解決のためのアクションプランを策定している。
  • 指標と目標:定量的な非財務KPIを設定し、モニタリングしている。非財務KPIとして定めた数値に限らず、人材に関する豊富な定量情報を開示している。

6.終わりに

TCFD提言の4要素である「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」が人的資本に関する情報開示の枠組みとして標準化するかはいまだ不透明なものの、ESG投資の拡大を踏まえると、人的資本の開示の推進は必須ともいえる。

Pearson社の事例からも読み取れるように、重要となるのは、経営戦略と人材戦略が体系的に統合されているかを明示することである。そのためにはTCFD提言の4要素や国内外のレポートを参考に、自社の人的資本に関する取り組みと経営戦略との関連を整理し、具体的な取り組みが整備されていない場合は、国内外の先行事例を参考にしながら、自社の経営戦略や現在保有する人的資本とフィットする施策を講じていくのが望ましい。

Pearson社の事例では非財務KPI以外にも人的資本に関する豊富な定量データを開示している。KPIとして定めるかは別として、ISO30414やGRIスタンダードなどの国際的な開示のガイドラインや、これらに基づく開示の先行事例を参考に、定量データの開示を充実させるための準備を進めることも重要である。定量情報の開示の充実は投資家にとって有用であることに加え、これまで把握できていなかった人的資本に関する様々な情報を収集し、競合他社と比較することで、自社の強みや弱みの相対的な把握にもつながる。

2023年1月31日には、金融庁の「企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令[](以下、内閣府令)」が公布・施行され、同年3月31日以後に終了する「事業年度に係る有価証券報告書」等から適用される。内閣府令では、人材の多様性の確保を含む人材の育成に関する方針および社内環境整備に関する方針について、TCFD提言の4要素である「戦略」「指標と目標[]」の記載が求められており、本レポートで論じた内容とも整合的である。

今後は、任意開示か法定開示かに関わらず、経営戦略と人的資本に関する取り組みとの関係性を整理した上で、人的資本に関する情報開示の充実が求められることになるだろう。

【関連サービス】
サステナビリティ(環境・資源・エネルギー・ESG・人権)
組織・人事戦略


[] https://assets.bbhub.io/company/sites/60/2022/10/2022-TCFD-Status-Report.pdf
[] Workforce-related corporate reporting –where to next?-
[] ISSBが2022年に発表した公開草案「IFRS S1号『サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項』[案]」の第11項では、サステナビリティに関する情報として、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」の4要素の開示を求めている。
[] The 100 most sustainable corporations
[] Pearson plc, “Annual report and accounts 2021”より
https://plc.pearson.com/sites/pearson-corp/files/pearson/annual-report-2021/pdf/pearson-annual-report-2021.pdf
[] 「Our six Key Performance Indicators」として、「Investing in Talent」「Inclusion & Diversity」のほか、「Digital Growth」「Consumer Engagement」「Product Effectiveness」「Sustainability Strategy」を設定している。なお、「Sustainability Strategy」の目標はCO2排出量の削減(2030年ネットゼロ)である。
[] 金融庁(2022)「企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令
[] 内閣府令では「指標及び目標」と表記されている。

執筆者

  • 松尾 拓樹

    コンサルティング事業本部

    サステナビリティビジネスユニット サステナビリティ戦略部

    コンサルタント

    松尾 拓樹
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