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サーチ・ナウ
2008.05.19 大阪はいつもドラマチック
1.いにしへより
大阪の歴史はドラマチックに始まる。東シナ海の波頭を越え、瀬戸内海を航海して茅渟の海(大阪湾)に到着した百済の国の使節は、上町台地の南の端に黄金色に輝く仏塔伽藍を望み、この国が安定した統一国家であることに安堵し、これからの交渉の成功を願ったであろう。このとき目にした仏塔伽藍は「四天王寺」、推古天皇の時代593年に聖徳太子が創建した寺院で、現在も毎年多くの参拝者でにぎわいを見せている。その後の大阪は歴史の波に飲まれ、逆らいつ隆盛と衰微を繰り返すこととなる。
最も隆盛の時代を迎えたのは、豊臣秀吉による大阪城築城の時代で、日本中から人と物資と技術と情報が大阪に集まり、全国人口の30%が大阪と周辺に吸い寄せられた黄金の日々の時代であった。江戸時代に入っても、各藩の蔵屋敷が建ち並び天下の台所として繁栄する一方、学問も盛んで浄瑠璃や茶の湯が町民に浸透し、18世紀中頃までは江戸と人口を競い合う都市であった。この時代に大阪を訪れた西欧人は大阪を「日本のパリ」「東洋のベニス」と呼んだ。(ちなみに「京都はローマ」、「江戸はロンドン」とたとえられた)
2.近代へ
"ダダーン"鳥羽伏見に響いた一発の銃声が、大阪の衰微の引き金になった。銀目の廃止により 「日本の富の七分は大阪にあり、大阪の富の八分は今橋にあり」と繁栄を極めた両替商は傾き始め、蔵屋敷が取り壊されて天下の台所を誇った商品取引も坂道を転げた。
"グラグラ"1923年東京で地面が揺れた、関東大震災である。大阪は東京の副首都として震災復興に経済力を発揮し、その間重化学工業の立地が進み、私鉄沿線ではモダンなまちづくりが進んだ。1937年には御堂筋が開通し、地下鉄がその下を走り、大阪は再び一大繁栄の時代を迎えることとなった。
"ウウ〜ン、空襲警報発令"戦争を挟んで情報と物資の東京集中による中央集権化が進み、大阪の繁栄は暗転する、こうした中、堺泉北沖合に大規模なコンビナートの形成や、北摂千里地域でニュータウン開発が進められ、1970年にはわが国で初めて開催された「大阪万国博覧会」には6,000万人を上まわる人々が集まり、大阪にひとときの明るさと活況をもたらした。しかし、これも長続きせず、阪神圏と首都圏を対象地域として制定された工場等制限法により、大阪への新規企業立地は大きく足踏みし、商社や金融機関をはじめとして本社機能が徐々に東京にシフトを始め、残された生産機能も海外移転により現地生産へと傾斜していく中で、関西国際空港が開港し、大阪は波乱の20世紀を終えることとなった。
3.未来へ
迎えて21世紀、大阪を縛ってきた工場等制限法が廃止され、まず臨海部に巨大物流機能が進出をはじめ、内陸部の研究拠点やものづくりを担う中小企業群には世界から注目が集まり、世界最大規模のオプトエレクトロニクス分野の研究開発・生産拠点が次々と臨海部に立地し始めている。1996年にはわずか7件(全国1,546件)だった大阪への新規工場立地は2005年には45件(全国1,554件)に増加し、平成10年には▲31,629人もあった人口の域外流出も、平成19年には▲4,952人となり、ようやく歯止めがかかってきた。
こうした中で、本年1月橋下徹大阪府新知事が誕生、新知事は「大阪府財政非常事態宣言」を宣告し「収入の範囲で予算を組む」の方針の下、聖域なき徹底した行財政改革に着手した。お手伝いをするわが社のようなシンクタンクも、息つく間もない轟音響く猛烈なスピードで邁進し「わずか2カ月」で財政再建プログラム試案が発表された、新しい歴史の始まりに期待が膨らむ。過去から未来へ、大阪はいつもドラマチックである。
注)難波、大坂など呼称が変化するが、本文ではすべて大阪と表記した。