ロシアのウクライナ侵攻がもたらす長期的な影響
ロシアのウクライナ侵攻がもたらす長期的な影響について、そろそろ考えてもよい時期に来たのではないでしょうか。事故が起きた時、それをクローズアップの映像だけから判断していたら、次に取るべき行動が思いつかないことがある。ヘリコプターの上からの俯瞰で観察して初めて、現場付近の交通の流れを変える必要性などに思い当たるのではないでしょうか。
それでウクライナ戦を俯瞰映像で眺めると何が見えてくるか。率直に言って、こんなイメージが浮かびます。世界地図の上に、ユーラシア大陸にまたがる世界一の領土を持つ国が記されています。筆者が学校教育を受けていた時代は「ソビエト連邦」と記載されていましたが、いまはロシアがあり、ロシアと緩い連邦制でつながるジョージアとか、カザフスタンとかがあり、それぞれの領域が別々に記入されています。それでも、依然として最大の領域を占めるのは「ロシア」です。
そのロシアが世界地図から消える。いや、「日本沈没」のようなことが起こって、地中に吸い込まれるわけではありません。そんなことが起こったら、残りの地上表面が均衡を保てるとも思われません。そうではなくて、ある時から国民が「ロシア」という言葉を口にしなくなるのです。新聞からも、テレビ・ニューズのヘッドラインからも「ロシア」が消える。
これは、「ロシア」という概念が人類の思考回路から消滅することかもしれない。一種の集団的記憶喪失ですね。
それでも、年配者が青春の思い出を語るときに、あるいは歴史を紐解く時には「ロシア」は登場するでしょう。たとえば、日本が朝鮮を併合したのは「、、戦争」の後だったとか、進撃を続けていたナポレオンは「、、、」に侵攻後、冬将軍に追い立てられ惨めに退却した、とか。こういう事実は、世界史や日本史の授業で教えられ続けるでしょう。歴史の授業でロシアという言葉に「伏字」を充てる必要が出てくるわけでもありません。「ロシア」という活字は残ります。しかし、あたかもわれわれが「石器時代」という言葉を目にした時のように、その言葉には不思議に現実感がないのです。
ロシア文化との関わりはどうなるでしょう?日本では、今のところ大きく変わっているようには見えません。クラシックの音楽業界では、すでにロシア人音楽家の来日を心配しているようですが、ロシア侵攻を身近なところで経験し、ウクライナの難民を受けている欧州では、ロシア文化に対してすでに風当たりが強くなっています。3月にはドイツの各所で、見本市などで予定されていたロシア文学フェアが次々とキャンセルされたという報道を目にしました。ロシアの音楽家が欧州の楽壇で得ていた地位を失ったり、コンサートがキャンセルされたりする状況が続いています。
はっきりしているのは、現状では欧米のアーティストとロシア在住のアーティストのコラボレーションが困難だというころです。3月以降の日本の状況を見ても、欧米の音楽家と同じ舞台に立つ企画の場合、欧米の音楽家がキャンセルするケースは稀ですが、ロシア在住の音楽家は間違いなくキャンセルします。コラボを実行する上での心理的障害を、ロシアの音楽家の方が強く意識するのです。
ロシア文学フェアがキャンセルされたりするところから見て、世界的には「チャイコフスキー」でも安泰ではないですね。「くるみ割り人形」が敵性芸術家による作品としてコンサートプログラムから消える日が来るのか。青春時代の「必読書」であるトルストイやドストエフスキーが書店の棚から消えることはないと思いますが、知識人や教育者が青年に推薦するのに勇気が必要になる時期が来るかもしれません。こうした作品の解説のページでは、「この作品は当時のロシア社会を強く反映している」といった記述が避けられるかもしれません。「ロシア社会を反映」といっただけで、若者が読まなくなるかもしれないのです。
ロシアという概念に対して、「われわれが集団記憶喪失を経験することになる」となぜ考えるのか、理由を説明しましょう。ウクライナの戦争は、二層の戦いです。一層目は、ウクライナとロシアの間の軍事的な戦争。二層目は西側とロシアの間の経済的な戦争です。
このうち一層目の軍事戦は、適当な区切りを見つけて、本格的な停戦交渉に入る機会がいずれ生まれてくると考えています。イタリア、フランス、ドイツなどの政治首脳の最近の発言からも、停戦協議の希望が強く窺えるからです。
しかし、軍事停戦への道が見えてきても、経済戦の停戦の方は別物でしょう。正直これについては、2022年2月24日前の状況に戻れる可能性はゼロと考えています。
2014年のクリミア占領の時、西側は対露経済制裁を実行しましたが、同時にドイツのようにロシアへのエネルギー依存を強め、ノルドストリーム2という新ガスパイプラインに向けて邁進した国もありました。ロシアとの間では、戦争の再発を避けるミンスク条約も結ばれていますが、まったく効果がありませんでした。ロシアとの関係改善に向けて、西側が差し伸べたすべての手段が裏目に出て、今回の戦争が起こったのです。
この苦い経験から西側が得た教訓は、再度戦争を引き起こすことが可能となるだけの経済的余力を、二度とロシアに与えないことではないでしょうか。天然ガス、石油からの外貨収入が上がってくる限り、それは優先的に軍備に回されるかもしれません。再度の戦争を避けるためには、ロシアに生存のために必要なぎりぎりの収入しか与えるべきではない。すでに2月24日に、ロシアは超えるべきでない一線を越えたのです。
今回の経済制裁の効果を見ると、西側政府がロシア中央銀行の資産凍結や、銀行間SWIFT勘定からのロシアの銀行の除外といった強力の措置を実行したのに合わせて、西側の大手企業、とくに金融にかかわる企業が早々に撤退を決めたことが目を引きます。会計業務の「BIG4」はすべて撤退を決めました。ロシアビジネスに力を入れていた欧州の大手銀行も撤退を決め、すでに損失を計上しています。
西側政府が強力な措置を取ったことが、民間企業への強いシグナルとなったのです。民間企業は、西側政府の対露経済制裁もやがて終わると考えているかもしれませんが、ぎりぎりの収入しか与えないというのが西側政府の長期戦略なら、本格的に終わることはないのです。西側の銀行や、会計事務所のビジネスも戻っては来ず、ロシアは国際資本市場との接点を喪失する。観光客の行き来もなく、学術交流もストップし、やがては地球上にロシアが存在することすら一般人は忘れていく。こうして集団的記憶喪失への道筋が描かれる。
「ロシア」についてのわれわれの記憶は薄れていくのですが、反対に薄れようもないほど、はっきり記憶に刻まれる認識もあります。「カントリー・リスク」、より具体的には「地政学リスク」についての認識です。ウクライナ戦争の前と後とをはっきり分けるもう一つの要因は、「地政学リスク」の重要度でしょう。
それが望ましいと言っているのではありません。そうなりそうなのです。
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