痛恨の極み

2022/07/27

非業の死を遂げられた安倍晋三さんとは、昨年の11月、ある席上でお会いしました。私がいるのが場違いなような場所で、ちょっと驚かれていましたが、「諮問会議の時は、大変良い議論ができました」と別れ際に力強く言っていただいたのを鮮明に覚えております。

私が一時、経済財政諮問会議の民間議員をしていたのは、安倍さんの推薦だったということもあり、思い出はいろいろあります。政治家としての評価等については、いずれまとめたいと思います。

突然の悲劇から翌々日に選挙という展開になりました。こういう出来事の影響は、選挙のみならず、その後にも大きな影響を及ぼします。この事件の前と後とで日本社会は変わるのではないか、個人的にはそう感じています。

「このような蛮行は許されない」と、翌日の新聞各紙はいずれも表現していました。この月並みな表現が、われわれの心情と一致することは事実ですが、「許されない」というだけでは、一歩も先に進めません。何が「許されない」のかを考えましょう。

どのような国にも、どのような社会にも、「リスクエレメント」が存在します。都心の道路を無数の車が信号機の指示に従って運航しています。それは正常な判断力によって車の運転が正常になされるという前提で行われる日常行為です。ところが、「正常な判断力」という前提が崩れることによって、悲惨な交通事故が引き起こされることがあります。

多くの場合、その原因は「高齢」ということで、近年は高齢者に運転免許の返納を推奨する動きが広がっています。今回の犯人の殺害動機として報道されているものから判断すると、高齢者の場合と違い、この事件は、正常とは言い難い精神からの行動がとられた結果だと考えられます。

ともかく、どのような社会にも「リスクエレメント」は存在します。そのために引き起こされる事故、事件の衝撃を最小のものにする「安全装置(フェールセーフ)」の仕組みが重要になってきます。この事件で、改めて考え直さないと考えるのは、日本のフェールセーフの仕組みです。

欧米でも、思想的や人種的に偏向していたり、精神の安定を欠いたりする犯人による大量銃殺事件やテロ事件は頻発していますが、重要政治家の暗殺事件は不思議に耳にしません。政治家暗殺に対するフェールセーフが強力なためだと思われます。

政治家暗殺に対するフェールセーフを特別に強化することには、正当な理由があります。そうした事件によって、「政治の流れが変わる」のを防ぐことです。報道された事件の写真では、犯人が被害者の真後ろに立っていることに警備側は不注意で、警備に問題があったことは否定できないという県警本部長の説明がありました。これについて、「有権者との距離を取りたくない願望が政治家にあるから」という説明を紙面で見ましたが、それでよいのでしょうか。政治家の警備は、政治家の意に沿って行うのではなく、事件が起こって政治の流れが変わることがないように行うべきです。国、社会の枠組みを守るのが警察の職務です。

この事件が起こってから、原敬、濱口雄幸、犬養毅、井上準之助、高橋是清といった重要政治家が次々と暗殺された戦前の日本の経験との比較が、内外の新聞で議論されました。

明確な思想、政治目的を持っていた犯人によってなされた戦前の事件と比較すると、今回の事件は確かに異なります。それにも関わらず、戦前の教訓は今回の事件を考える上でも重要だと思われますし、戦前の教訓を十分に踏まえていたなら、今回の事件が起こる危険が減っていたと考えます。

原、濱口、犬養、井上、高橋という暗殺の流れは、まさに軍事的冒険主義に反対する政治指導者が次々と抹殺されていった過程に外ならず、不幸な戦争への突入はこの流れがなかったなら、阻止できたかもしれません。このことが証明するように、政治的な暗殺は政治の流れを、かえてしまうのです。

事件は、参議院選挙の直前で起こりました。日本の長期戦略に関わる根本的な政策方針は、参院選後に決めるというのが当初からの岸田政権の考えでした。それゆえ、猛暑とウクライナ戦争でひっ迫するエネルギー、電力問題にどのような戦略で挑むのか、その場合の原発の比重は、とか。ゼロ金利政策転換の可能性が見えてきた中で、財政の立て直しはどのようにするのか、とか。はたして憲法を改正して、自衛隊の位置づけを強化するのか、とか。そういった様々な政策課題は、今後の選挙のない3年間に議論され、実行される、これも当初から計画されていました。

参院選で勝利すれば、岸田政権はこうした日本の長期戦略を企画、実行する権限を与えられるというのも一般的認識になっていました。

事件前に考えられたこうした政治の流れに、この事件がどれだけの影響を持つかは、まだ誰にもわかりません。影響が少なければよいと思います。感情的な行動を避け、議論するべき問題は議論を尽くすことを通じて、必要な変化を実現する正しい方向からの逸脱が避けられるように、政治家の努力を期待します。

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