ミハイル・ゴルバチョフ、エリザベス2世
ミハイル・ゴルバチョフ、エリザベス女王、歴史に名を遺す人物が死去しました。現在の世界情勢に照らし合わせ、彼らの生涯の歴史的な意味を問い直すといった論説を新聞に期待したのですが、フィナンシャルタイムズ(FT)に載せられた、歴史家サイモン・シャーマの「エリザベス女王の回顧」のさすがと思わせる活写を除いて、深く印象に刻まれるような論説は見当たりませんでした。ここ5-6年、驚くべき出来事が続いているため、われわれの驚く感情も、感激する感情も衰えているのでしょうか。
以下は、この二人の死について個人的に思い浮かべたことを綴ったものです。少し長くなります。ゴルバチョフについては、ウクライナ戦争に絡んでいろいろなところで書いたので、あまり触れられていないと思われることを書きます。それはゴルバチョフと帝政ロシア時代の大政治家セルゲイ・ウィッテ(1849-1915)との共通点です。豪胆なウィッテは、神経質なゴルバチョフとは違う性格の持ち主でしたが、二人の政治思想には共通点がありました。ロシアを一流の工業国にしようとしたのです。
将来のツァーリ、ニコライ2世が皇太子の時に、ウィッテが彼に講義した記録に、ウィッテの経済思想が明確に表れています。「19世紀末現在、帝国主義が隆盛だ。その中で、ロシアはイギリス、フランスのような帝国に食料、原材料を提供し、工業品を買い入れると言う点で、経済的には植民地のステータスにある。しかし、ロシアにはアジアやアフリカの植民地になった国々とは違った点がある。世界最強の軍隊を持つことだ。それがある以上、ロシア自身が植民地ではなく、帝国にならなければならない。そのために必要なのは欧州の列強に見劣りしない工業力を、ロシアがつけることだ」
これがウィッテの思想の骨子です。その目的のためにウィッテの指導力の下、フランスなどから莫大な借金をして建設したのがシベリア横断鉄道です。彼は稀代の発想力を持った政治家でしたが、20世紀に入って政治力が急落します。その理由は、彼が最初に使えたアレクサンドル3世は彼の政策を全面的にバックアップしたものの、この皇帝が1894年に死亡すると、その跡を継いだニコライ2世とは方針の違いで激しく衝突するようになったことです。
それでも、1905年に日露戦争を収拾するためのポーツマス会議のロシア側全権大使に選ばれた彼は、ロシア側に奇跡的な好結果をもたらします。これでニコライ2世も少し見方を変え、彼にロシア史上初の「憲法」の草案作成を委ねるのですが、今回も皇帝は途中で気変わりし、ロシアに初めて民主政治を導入しようとしたウィッテの努力は惨憺たる失敗に終わります。
なぜ、ニコライ2世は気変わりをしたのか。ポイントは石油です。現在のアゼルバイジャンの首都バクーにある石油田は19世紀末から開発が始まっていました。手がけたのはノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルの親族などでした。そのバクー油田の生産力が20世紀初頭に大幅に拡大し、ロシアは世界有数の石油資源を持つことになります。それで、もう民主化など考えなくてよいとツァーリは考えたのでしょう。
ゴルバチョフも毀誉褒貶の多かった人物ですが、ソ連工業の生産性を高めることを目指したのは間違いありません。経済だけでなく、政治の改革も彼が目指したのは、軍需、農業、資源の基幹産業に蔓延っている利権、規制、腐敗を取り除かなければ工業の生産性は改善しないと考えたからです。しかし、ウィッテと同じく、彼の改革も失敗します。彼の改革に対する国内の政治的バックアップが乏しかったからです。人気取りのために彼はバラマキ政治を行い、経済破綻と高インフレの中でソ連は崩壊するのです。結局、ロシア史において、工業を改革する試みは失敗に終わる運命なのでしょうか。
ゴルバチョフのあとエリツィンが政治の指導権を一時的に握りますが、すぐに引退します。その後を継いだのはウィッテやゴルバチョフとはまったく異なった経済思想を持つ政治家、プーチン現ロシア大統領でした。ロシアが大量の核兵器を持つ軍事大国であること、これはロシアが「帝国」である必要条件であるとこの人物も考えます。しかし、「帝国」になるために世界一流の工業を持つ必要はない。むしろ、世界トップクラスのエネルギーの輸出能力を維持することが、ロシア帝国の再建に絶対必要なのだ。それがこの人物の経済思想、信念なのだと思います。
ここで話が変わります。1989年に「フランス革命200年祭」の式典がパリで開かれました。フランスの国威発揚のチャンスと、当時のミッテラン仏大統領は考えたのだと思いますが、驚いたことに当時の世界的な知識層、とくに英米の知識層はフランス革命を批判的に評価していました。考えてみてください。1989年は天安門事件の起こった年、しかもソ連が崩壊するのは、そのわずか2年先のことなのです。「革命」という言葉は、すでに胡散臭いものになっていたのです。
フランス革命に批判的な英米の知識人の代表として、パリでスピーチをしたのがサイモン・シャーマでした。シャーマは当時のフランス革命政府側のパンフレットとして名高いシェイエスの「第三身分とは何か」を引き合いに出して、フランス革命の思想を根本から批判しました。革命前からフランスには身分制議会があり、「聖職者(第一身分)」、「貴族(第二身分)」の代表を集めた議会は開かれていました。ところが、その他の全国民である第三身分、つまりフランスの一般国民のための議会だけが存在しなかったのです。国民所得への貢献がほとんどない聖職者、貴族だけになぜ政治的特権を与えるのか!それをすぐに廃止し、すべての政治権力を第三身分に与えよ!そして彼らに政治の行方を決めさせよ!これがシェイエスのパンフレットの一般国民に非常に分かりやすいメッセージでした。
ですが、いきなり全国民に政治権力を与え、「君らが政治を決めよ!」と言いつけたところで、それで具体的な政治方針が決まるわけはありません。結局のところ、民衆は扇動がうまいアジテーターの食い物になる。それで政治はアジテーターの言うように動く。(アメリカのトランプ政治の経験からもそれは明らかですよね!)むしろ、民衆が政治の権限を与えているだけに、こうしたアジテーターは専横的に、独断的に、容赦なく行動することができるわけです。事実、独裁者ナポレオンが率いるフランス軍によって、欧州大陸は1815年までの20年以上にわたる悲惨な国民戦争に巻き込まれるわけです。
こうしたフランスの革命を原点とする、「民主主義」とは、イギリスの伝統的な「民主主義」が根本から異なることをエドモンド・バーク(1729-1797)が古典的なフランス革命批判で指摘しています。
イギリス流の民主政治の出発点は、フランス革命のちょうど100年前に制定された「権利の章典」です。この章典は、市民に確保されるべきさまざまな自由を明示するとともに、政治の執行力を持つ国王の選出が「世襲のルールの下で」決められることも確立しているのです。しかも、その章典が提示された時点のイギリス国民だけをこのルールで縛るのではありません。将来の世代も含めたすべてのイギリス国民を縛る、順守すべきルールとして「国王選出の世襲制」が定められているのです。
イギリスがこのような思想体系を国の根幹として採用するのは、一つの個人、組織、機関に「より多くの自由」を与えることが、他の個人、組織、機関にとっては、「より多くの不自由」を意味するからです。そうであるからこそ、国の根幹としての憲法のルールには、特定の個人、組織、機関の持つ「自由」を明示すると同時に、その個人、組織、機関の持つ「自由の及ぶ限界」も明示する必要があります。
たとえば国王には、自分の意志で国王職を辞任する「自由」は認められます。しかし、自分の国王辞任と同時に、「王政」自体を廃止するといった権限は認められていません。それだけでなく、自分の後任者を恣意的に選任する権限も認められていません。国王にそうした権限を認めることは、社会の安定と基本的な自由が維持されるために必要な様々なプレイヤーの間の均衡を覆すことつながるからです。世襲制についてみると、これは議会や国王が王位の承継については、「世襲制」というすでに慣例として確立しているルールに従うしかないとすることによって、議会の権力の過剰行使と、国王の権力の過剰行使の両方に制限をかけることを意味します。イギリスの政治指導者は、そのような制限が、自由な権利の承認と同時に絶対必要と考えたのです。
イギリス史の場合、やがて議会は予算権を持つことを通じて政治の実権を掌握します。その結果、20世紀に入るとイギリス国王は象徴的な存在でしかなくなります。それでも「国王選出の世襲制」という根本ルールは守られたのですが、「国王が自分の意志で辞任する」というエドモンド・バークも認める権限だけは残されており、その権限行使の問題が、故エリザベス女王の叔父にあたるエドワード8世の時に起こります。エドワード8世は離婚歴のあるアメリカ女性との結婚をするために、国王職を辞任したのです。
FTに載せられたシャーマのエリザベス女王の回顧によれば、エドワード8世の辞職以降、エドワード8世の弟で、エリザベスの父であるジョージ6世は陰鬱になり、そのことが恐らく彼の寿命を短くしたということです。個人としての生活を犠牲にして国王という「役柄」を与えられ、それを生涯にわたり努めなければならないという重圧が、20世紀中ごろにはイギリスの王族にひしひしと押し寄せてきたのでしょう。
故女王については、70年にわたる在位を務め、イギリス社会の不変の面、その強靭さを、生身の人間の体で表現し続けられたというのは大変なことだと思います。しかし、女王の治世にも幾度かの危機があり、最大の危機はチャールズ皇太子と国民に愛されたダイアナ妃の離婚劇の時だった。とくにダイアナ妃の急死にあたり、バッキンガム宮殿に半旗を翻さなかったイギリス王室の判断ミスとシャーマは評価します。
ダイアナ妃の第2子であるヘンリー王子が、米国女優との結婚を機に王籍を離脱したことが示すように、「個人」と「公人」の対立から起こる問題は、今後もイギリス王室で増えていくことでしょう。70年間職務を務めた故女王がイギリス社会の一貫性を体現したとしても、その後継者チャールズ国王は、その分だけ短い時間しか王位につけないことになり、存在感は弱まるはずです。
「国王には、自分の意志で国王職を辞任する『自由』は認められるが、自分の辞任と同時に『王政』自体を廃止するといった権限は認められない」というエドモンド・バーグの認識を思い出しましょう。もしかしたら、今後、イギリスで国王が次々辞任をすることによって、「象徴君主制」自体が廃止に追い込まれる危険があるのではないか?
いや、これはイギリスだけのことではありません。「象徴君主制」を抱える国すべてに共通する問題だと思います。
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