ウクライナ情勢緊迫化 露にガス依存 EUの弱み
19世紀末に帝政ロシアの実権を握った財政家ウィッテは、帝国が目指すべき経済政策をこう提言した。
「資源、農産品を西欧に輸出する一方、西欧から工業品を輸入するロシアの貿易パターンは宗主国と植民地の関係に等しい。強大な軍事力を持つロシアは植民地の地位に甘んじるべきではなく、宗主国を目指すべきだ。そのためには国家主導による強力な工業化が不可欠だ」
重工業を基盤とするソビエト連邦時代の計画経済は、事実上ウィッテ構想の延長線にあった。それは歪んだ経済を生み、ソ連崩壊につながった。「新生ロシア」は強大な軍事力(核ミサイル)と資源輸出(石油、ガス)という帝政時代の枠組みに戻る。世界の新興国の工業化で石油、ガスの需要が拡大し、現在はロシア経済を支えるだけの収入が生まれている。しかし今後、脱化石燃料政策が世界的に進めば、20年、30年後には経済の維持が危うくなる。
ロシア軍12万人が国境周辺に集結し、ウクライナ情勢は緊迫する。米ロ交渉は続くが、北大西洋条約機構(NATO)にウクライナを加盟させない、東進を目指さないなど、ロシアは米国が呑めない要求を出した。ロシアの真意は恐らく自国の「勢力圏」を正式に承認させることだ。ロシア陣営につく経済的意義が薄れ、周辺国が西側になびくのを恐れるのだ。
そもそもソ連崩壊は1991年12月のウクライナの国民投票に基づく「独立宣言」が引き金だった。宣言からわずか1か月後にソ連が消滅し、原則的には独立を認められた共和国間の緩い共同体「独立国家共同体(CIS)」が生まれ、辛うじて統合を繋ぎとめた。
2014年のロシアのクリミア侵攻とウクライナ内戦勃発という展開のきっかけは、13年にウクライナ議会が欧州連合(EU)との連合協定の交渉開始を決定したことだった。沈み行く船から船客が他に乗り移るのを防ぐかのように、ロシアはウクライナ、ジョージア、カザフスタン、ベラルーシなどを「勢力圏」と西側に暗黙のうちに認めさせ、軍事力を投入し、西側になびきやすい民主政治を、親ロ派の強権政治で置き換える行動をすでに起こしている。
今回の衝突に備えロシア側は十分な準備をしている。核大国ロシアとの直接軍事衝突は誰も望まないから、紛争の際の西側の手段は経済制裁だ。選択肢に挙げられているのは金融制裁、西側銀行にあるロシア人口座凍結、国際間銀行決済の差し止めなどだ。金融制裁に備えるかのように、ロシア中央銀行は15年と比べて外貨準備を7割拡大した。石油価格の上昇局面での利益を蓄積する国営ファンドも創設され、昨年暮れの資産は20兆円に達した。
さらにロシア側には、西側が経済制裁に出た場合、天然ガス輸出を削減するという強力な対抗策がある。EU、とくに脱原発政策が完了に近づくドイツには大きな脅威だ。液化費用が掛かる洋上輸送と比べ、パイプラインで輸送されるロシアのガスはEUにとり経済的。そのためEU全体のガス需要の4割をロシア産が占めるが、中でもドイツは55%をロシアに依存する。
クリミア侵攻への経済制裁発動後も、ガスにおけるEUの対ロ依存は続き、果ては昨秋、ウクライナを通さずバルト海を経由しロシアからドイツに直接ガスを運ぶ「ノルトストリーム2」の完成を見た。使用されればドイツの全発電量の3割を担うはずだが、米国や他のEU諸国からは、ウクライナへの軍事行動が起こった場合、廃棄を宣言するようドイツ政府に対して求める声が高まっている。今回の紛争への下準備か、昨年10~12月期、ロシアはEUへのガス供給を20~25%減少させた。その結果、EUのガス備蓄は激減し、ガス価格は記録的に上昇している。
無秩序な撤退と批判を浴びたアフガニスタンからの退却後、米政権には自由世界を守るリーダーの資格を明示することが求められている。ウクライナ危機はその試金石となるが、ロシアへの有効な対抗策を可能にするためには、経済制裁におけるEUの全面協力が必要だ。ところがロシアは、コロナ禍と厳冬で国民が疲弊しきったこのタイミングを選び、ガス供給削減でEUが受ける被害、工業生産の激減や、計画停電の頻発の悪夢をちらつかせてきた。米国とEUの協力にくさびを打ち込むためだ。
ロシアに弱みを握られる展開になった責任はEUにもある。EU統合は経済、ビジネス分野での域内共通政策の実現に進んだ。ところが外交、安全保障の分野では、共通認識を確立する努力すら行われなかった。相手がどのような原理に立つ国であれ、自由貿易を進めれば、ウィンウインの関係を通じて国家間の利害は共通化し、敵愾心は自然消滅すると単純に信じられてきたのだ。とくに不幸な歴史経験を持つドイツは、政治倫理を前面に出すのを嫌い、原理の異なる中国やロシアとのビジネスにまい進した。
結局EUが折れて、ロシアに譲歩し軍事緊張が解けるのか、そうならず戦闘が起こるのか、どちらも可能性がある。戦闘となれば石油、ガス価格が高騰して世界経済は大混乱する。たとえ戦闘を避けても、西側、自由陣営には強権体制への対抗戦略を立て直す緊急な課題が生じる。EU、とくにドイツの責任は大きいが、極東でも、もし中国が台湾を「勢力圏」と承認させようとしたら、日本や米国はどう行動するべきかが課題として浮上するだろう。
(読売新聞『竹森俊平の世界潮流』2022年02月04日号より転載)
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