日米『賃上げ、値上げ』に差 雇用慣行 金融政策を左右
1月の米国の雇用増は予測値の3倍の50万人。失業率は3・4%という過去53年間の最低に下がった。ところがこの「朗報」が伝わると米国の国債、社債の価格は崩壊、新興国債券も大打撃を受けた。予想外の好況により、米連邦準備制度理事会(FRB)が本年中に利下げに転じるという観測が消え、利上げ継続が市場予想となったためだ。
米国の高インフレ(物価上昇)の主因は「賃上げ・値上げ」の循環。昨年の賃金上昇率は5%と高かったが、それでも9%の物価上昇率を下回るため実質賃金は低下した。生活苦を感じる労働者は賃上げを要求し、人手不足の現状で要求は実現する。賃上げを飲んだ企業はその負担を値上げで解消するので、次の「賃上げ・値上げ」が始まる。インフレの進行を止めるにはこの循環を壊すことが不可欠。そのためには失業率が増える(人手不足がなくなる)よう、利上げで意図的に景気を悪化させる必要がある。
「賃上げ・値上げ」の背後で雇用調整が活発に進む。コロナ下で拡大した需要が調整局面に入ったIT産業や、金利上昇で業績が悪化した金融業では、今年になりグーグルの6%、ゴールドマンサックスの6・5%など大量解雇が行われた。他方、エネルギーや建設業の雇用熱は高く、建設業では平均賃金が時給5千円の記録的水準に上昇したが、それでも労働力が55万人分不足すると言われ、賃上げ圧力は続く。
米国で解雇と賃上げがともに活発なのには理由がある。もしいったん雇用した労働者を解雇できず、終身雇用する必要があるなら、高賃金での大量雇用は業績下降の際に企業への重大な負担となるので、企業は賃上げに慎重になる。しかし米企業は業績下降には解雇で応じる。それゆえ好業績企業は業績下降時への影響を恐れず、労働者を引き付けるための賃上げができる。それに劣らない賃金を提示する必要がある業績不振企業は、給与負担を減らすために解雇を実行し、解雇された労働者は好業績企業に向かう。
日本の直近のインフレ率も4%に達したが、それでも「賃上げ、値上げ」が活発ではないためインフレ率は米国より低い。なぜか。米国に比べ日本の賃金上昇率が長期的に低いのは、米国の生産性上昇率が日本より高いためだが、米国の生産性は昨年コロナの影響で1・5%低下した。現在の「賃上げ、値上げ」の日米差は、両国の雇用慣行の違いなどに原因がある。
日本では、特に大企業で解雇が忌避される。実際、「失われた10年」や2008年のリーマン・ショックなどの危機にも大企業は終身雇用を維持したが、そのため米国と異なり、企業には業績下降に備えた財力作りが必要となった。こうして企業は賃上げを見送り、研究開発や人材への投資さえ減らし、ひたすら現金をため込むようになる。かつては耐久性に優れたメイド・イン・ジャパンの源泉とされた終身雇用だが、消費者が新モデルを次々買い替える時代に入り耐久性は意味を失う。他方で研究開発、人材育成を怠ったことが製品開発力の低下を招き、日本企業は凋落(ちょうらく)する。終身雇用の影響は「賃上げ、値上げ」の不在にも表れる。解雇についての法制度改革が難しい中で、どのようにこの循環を可能にするかが現在、模索されている。
日本銀行の次期総裁候補の植田和男氏は、昨年7月の「拙速な引き締めを避けよ」という論説で、「自然な形での金融政策の正常化が可能となるような持続的な2%のインフレ」を金融政策の目標とすべきで、賃上げはその「持続的なインフレに必須」と述べている。エネルギー価格高騰をきっかけに国民生活に打撃を与えている現下のインフレだが、「賃上げ、値上げ」の促進にはプラスで、植田氏も「最近の動きは期待を持たせる」と評価する。他方、「今回の世界的なインフレ率の上昇が続くうちに日銀が金利を引き上げるチャンスが訪れるだろうか」と事態が切迫していることも喚起する。
日本で「賃上げ、値上げ」が定着し、その結果2%インフレが持続することは、二つの点で企業行動にプラスの変化を生む。第一に、財力維持のためもっぱら現金をため込む企業は、インフレで財力が目減りし衰退する。第二に、高い賃金を出して優秀な人材を採用し、労賃の上昇分を値上げに転嫁することができない企業、つまり製品開発力のない企業は、優秀な労働者から見放される。
「2%インフレ政策」への反発は各所で強まるだろう。製品開発力がなく値上げができない企業や、銀行預金が目減りする高齢者の反発は高まり、政治的逆風は強くなる。その中で政府が日銀の政策のサポートを貫けるかに日銀の政策実行力は依存する。
現在、投資の促進のために、日銀が長期(10年物)国債を無制限に買い支えることで、10年物金利を低い上限に抑える異例の緩和策の継続が争点になっている。利上げが進む米国では10年物金利も上昇したが、その影響で日本でも金利上限の維持が不可能になり、10年物国債価格が下落する(金利は上昇)という読みから、空売り投機が激化している。
小手先の修正で投機圧力を逃れるのが困難な現状を植田氏は、「現在の異例の金融緩和が微調整に向かない枠組みになっている」とずばり指摘する。2%の持続的インフレ実現に不可欠として金利上限を維持するのか、それとも金利上限をやめれば10年物金利が最大1・1%に上昇するという予想を乗り越えて、金利上限を撤廃するのか、就任早々に重大な二者択一を迫られるかもしれない。今後、日銀と政府の間の不協和音が投機圧力を招くことは注意するべきだ。
(読売新聞『竹森俊平の世界潮流』2023年3月3日号より転載)
テーマ・タグから見つける
テーマを選択いただくと、該当するタグが表示され、レポート・コラムを絞り込むことができます。