政策・経営研究39号最終
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シンクタンク・レポート74季刊 政策・経営研究 2016  vol.3集まるサークル班の2種類があり、組合員は複数の班に入ることも可能である。班活動は、地域で気軽に仲間を増やし、無理なく楽しく続けることが目標とされ、登録制で組合員ならば誰でも作ることができるが、班会を年に1回以上開催しない場合は登録取り消しとなる。すなわち上述した1,223はすべて、活動を継続している班だと言える。支部は、200人以上の組合員が在住し、10以上の班があり、運営委員を引き受ける組合員が5名以上いる場合に立ち上げることが可能である。地理的な範囲は、小学校区よりも小さい程度から市レベルの広さまでさまざまである。支部ごとに運営委員が選ばれ、その数は2015年度時点で611名を数える。各支部からは支部長が選出され、支部長会を構成するとともに、年に1度支部総会を開催、運営委員・年間方針・予算の確認を行っている。ブロックとは複数の支部が束ねられたもので、11に分かれたブロック単位でも役員が選出され、ブロック長会が開かれている。(3)設立に至る経緯とその後の展開1)設立のきっかけ1953年7月、当時の星崎村(現名古屋市南区星崎地区)に位置する蒼龍寺の一角に、貧しい住民を救済するためのセツルメント活動の一環として臨時の診療所が開設された。その後、医大生と地域の青年たちにより運営協議会が設立され、同じく近隣に所在する常徳寺に場所を移し、初代の星崎診療所が常設の医療機関として開設された。翌年、医療生協として組織化することに挑戦するも、会員数が足らず、この時点では医療生協の立ち上げを一度断念することになる。それから6年後の1959年9月26日、東海地方を伊勢湾台風が襲う。死者・行方不明者合わせて5,000人以上、被災者は30万人を越える激甚災害をもたらした伊勢湾台風によって、名古屋市南部は甚大な被害を受けた。名古屋市南部は、江戸時代以降に干拓により新田開発された土地で、名古屋港に面した海抜ゼロメートル地帯が広がっている。周囲には山崎川・天白川・大江川といった複数の河川が存在し、伊勢湾台風の際にはこの河川に沿って貯木場から材木が流出、大雨による浸水被害だけではなく、大量の材木が付近に広がっていた木造家屋に衝突したため家屋倒壊が激しく、名古屋市南部は壊滅的な被害を被った。これを受けて、全日本民主医療機関連合会が中心となり、星崎地域において緊急救援活動を実施。復旧期には前述のセツルメント活動の担い手と協力し支援を行った。そしてこの支援活動の中心となった医療従事者と住民計308人の組合員により設立されたのが、南医療生活協同組合であった。2)地域社会の変化と南医療生協70年代~80年代の南医療生協の活動の展開は、同地域の大気汚染による公害問題と切り離すことはできない。南医療生協が初期に活動の中心としていた名古屋市南部地域は、名古屋南部大気汚染公害の発生地域である。同地域は、伊勢湾台風からの復旧期には、かねてから進展していた名古屋港開発が加速し工場進出が進み、繊維工業を中心とする工業地帯へと変化していった。さらに高度成長期には中部電力や東海製鉄(現:新日本製鉄)、大同特殊鋼等の操業が相次ぎ、重化学工業の一大集積地へと変貌を遂げていった。同地域には地方出身者も含めた工場労働者が多く集住、こうした中、1960年代には工場ばい煙による大気汚染が深刻化していった。工業地帯の形成とともに進んだ道路網の整備も大気汚染の深刻化に拍車をかけた。1970年代には三重県四日市市と名古屋市南部の工業地帯を結ぶ国道23号線の全面開通や、国道1号線の交通量増加等も加わり、名古屋市南部では工場ばい煙と自動車の排気ガスを要因とする大気汚染公害が一層深刻化していった。南区内においては、柴田地域を中心に、「柴田ぜんそく」と言われる健康被害が深刻化、喘息の罹患率が向上した。こうした中で、南医療生協は公害闘争においても医療的見地から積極的な関与を果たしていった。さらには老人医療費無料化運動、乳幼児医療費無料化運動等も含め、地域社会の医療を守る取り組みを独自に進展させてきた。

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