無形資産経営の時代における知的財産政策

2022/10/14 肥塚 直人
知的財産

知的財産基本法に基づき、知的財産戦略本部では毎年、知的財産推進計画を策定、公表している。2021年7月に公表された「知的財産推進計画2021」では、世界知的所有権機関(WIPO)が毎年公表している「グローバルイノベーション指数(GII)」を参照し、日本のイノベーション機能に課題があることを指摘していたが、2022年6月に公表された「知的財産推進計画2022」でも、日本がイノベーション後進国から脱却できていないという厳しい現状認識が示された。そして、日本の知財エコシステムがイノベーションに十分貢献できていないという課題認識に立ち、イノベーションに貢献できる知財エコシステムへの転換が必要であることが強調されている。イノベーションを担う主体は大企業だけでなく、スタートアップ企業や中小企業、個人も含めて多様化しており、これに対応した知財エコシステムを再構築することが日本としての知財戦略に求められる最大の課題であるとも指摘している。

このように近年の知的財産政策において「知財エコシステム」という言葉は重要なキーワードとなっている。「知的財産推進計画2022」の中で知財エコシステムについて特段の定義が記載されている訳ではないが、知的財産政策において知財エコシステムという用語を使用する際には広義の意味で用いられていることが多い。例えば、特許庁が2021年6月に公表した特許庁の新しい「ミッション・ビジョン・バリューズ」の中で、知財エコシステムを協創していくことが記載されているが、知財エコシステムについて「知的財産を創造し、保護し、活用する循環を示す知的創造サイクルの概念に加え、そこから生まれる知的財産を基に、人々が互いに、また、社会に対して好影響を及ぼし、自律的に新たな関係が構築され、新たな『知』が育まれ、新たな価値が生み出される、いわば知的財産の生態系を指します」と定義している。

そもそも、知的財産制度がイノベーションと密接な関係にあることは疑いようもなく、知的財産権はイノベーションに大きな影響を与えるものである。特に特許権ないし特許制度の活用を促すことでイノベーションを促進していこうという政策を「プロパテント政策」と呼ぶ。アメリカにおいては1970年代以降、プロパテント政策が推進されたことが知られているが、日本では日本版ヤング・レポートと呼ばれた「21世紀の知的財産権を考える懇談会」が1997年に取りまとめた報告書が契機となり、制度整備が進められた。その中で、小泉内閣が知的財産立国宣言を行い、2002年7月に知的財産戦略大綱が策定され、同年12月に知的財産基本法が公布されるに至った経緯がある。その後、知的財産基本法に基づいて実施される日本の知的財産戦略は、知的財産権制度の適切な運用だけでなく、当初より「知的財産の創造、保護、活用」を幅広く促進することを念頭に置いたものであり、その流れは現在の政策においても受け継がれている。

続いて、エコシステムという概念自体は元々自然界の「生態系」を指すものであるが、経営学等の領域において「ビジネス・エコシステム」という概念が次第に浸透しており、知財エコシステムという概念も「ビジネス・エコシステム」の概念の上に成り立っているものと考えられる。そして、「知的財産推進計画2022」において、イノベーションに貢献できる知財エコシステムへの転換が必要であることが強調されているように、知財エコシステムを再構築していくことで、イノベーション・システム自体の改善をしていくことが意図されている。ナショナル・イノベーション・システムとも呼ばれる、企業だけでなく、大学等の研究機関や政府も含めた経済社会のシステムを念頭に置けば、当該システムを効果的に機能させる方策を知財エコシステムという観点から捉えていくことが重要であると言える。

改めて「知的財産推進計画2022」を見ると、①スタートアップ・大学の知財エコシステムの強化、②知財・無形資産の投資・活用促進メカニズムの強化、③標準の戦略的活用の促進、④デジタル社会の実現に向けたデータ流通・利活用環境の整備、⑤デジタル時代のコンテンツ戦略、⑥中小企業/地方(地域)/農林水産分野の知財活用強化、⑦知財活用を支える制度・運用・人材基盤の強化、⑧アフターコロナを見据えたクールジャパンの再起動という8つの柱で構成されており、知財エコシステムはいずれのテーマにおいても基盤として重要な観点であると言える。

知財エコシステムという言葉が明示的に用いられている①については、一般論として経営資源が乏しいスタートアップや大学において不足している組織能力(特に知的財産の創造、保護、活用に必要となる知的財産戦略や知的財産マネジメント等)を、知財エコシステムの中で補完したり、組織能力の向上を図ったりすることは重要であり、政策的な後押しが必要とされる分野であることは疑いがない。また、⑥についても、知的財産に関する組織能力が不足していると言われている中小企業や農林水産業従事者について政策的な後押しが必要であることは明らかであり、知財専門家や支援機関等を巻き込んだ知財エコシステムの強化が期待される。

②から⑤については、ベンチャー企業や中小企業が対象となる場面においては、①及び⑥と同様に知財エコシステムが重要となることは当然であるが、急激な事業環境変化に晒されている大企業にとっても数多くの課題を抱えているテーマである。筆者がさまざまな大企業の新規事業部門や知財部門等と意見交換をしている実感としても、多くの大企業においてキャッチアップが必要なテーマであると感じている。一般に大企業に対しては、経営資源の不足や組織能力の不足を補う観点からの支援を政策的に実施することは少ないが、大企業がナショナル・イノベーション・システムの重要な担い手であることに鑑みれば、知財エコシステムの観点からも、大企業が必要な対応を行っていけるような制度設計や普及啓発も引き続き重要であると言える。またオープン・イノベーションの時代にあって、大企業同士はもちろん、大企業と中小企業やベンチャー企業、大企業と大学といった形態での協働の機会が増えていることから、双方がオープン・イノベーション型の共同研究や事業開発をしやすい環境を整備していくことも大事な観点である。この点、大企業と中小企業における知的財産に関するリテラシーにギャップがあることなども一因として、両者の取引適正化の必要性が政策上は注目されている。一方で、大企業もオープン・イノベーションの観点からベンチャー企業や中小企業との協働が不可欠であると言えるが、先端技術分野において高い技術やノウハウを有するベンチャー企業や中小企業はグローバルベースで引く手あまたであるのが実態であり、むしろ大企業がパートナーとして選ばれる立場にあることも少なくない。以前、意見交換を行ったあるグローバル企業のジェネラルカウンシルが「自社がベンチャー企業の知的財産や法務面の経営能力を身に付けることをサポートしていくことが必要であり、そうした活動を通じて自社がベンチャー企業から見ても頼りになるパートナーとなることが大事である。」という趣旨の発言をしていたことが記憶に残っている。持続可能な経営が強く求められる中、時代の変化に対応していくためにも持続可能なイノベーションの仕組みを構築することは重要であるが、その仕組みは自社のみで実現できるものではなく、イノベーション・エコシステムへの参加や、イノベーション・エコシステムの戦略的な形成も重要となっている。その際、「知財エコシステム」というキーワードは、大企業もその一員であることを自覚させるものであると同時に、自社の戦略的な関与が必要なテーマにもなっていると認識すべきである。

近年の知的財産政策におけるキーワードの1つである「知財エコシステム」について取り上げさせていただいた。これからも日本のナショナル・イノベーション・システムを支える「知財エコシステム」の形成に、知的財産をテーマに取り組むシンクタンク部門として貢献していきたい。


主としてスタートアップや大学を中心とした知財エコシステムについて、2022年2月から4月に知的財産戦略本部に設置された「スタートアップ・大学を中心とする知財エコシステムの在り方に関する検討会」でも議論が行われており、同検討会が4月に公表した「スタートアップ・大学を中心とする知財エコシステムの強化に向けた施策の方向性」の内容は「知的財産推進計画2022」にも受け継がれている。

特許庁「ミッション・ビジョン・バリューズ」(2021年6月15日公表)。

後藤晃・長岡貞男編『知的財産制度とイノベーション』(東京大学出版会、2003年)1頁。

例えば、J.F. Moore, Predators and prey: a new ecology of competition, 71 Harv. Bus. Rev. 75-86 (1993).が「ビジネス・エコシステム」という概念を経営学の文脈で用いている。日本では、マルコ・イアンシティ=ロイ・レビーン(杉本幸太郎 訳)『キーストン戦略-イノベーションを持続させるビジネス・エコシステム』(翔泳社、2007年)や、ロン・アドナー(清水勝彦 監訳)『ワイドレンズ』(東洋経済新報社、2013年)という翻訳書が広く知られている。

イノベーションの捉え方は、シュムペーターが「新結合」という訳語で知られる概念を提唱して以来、さまざまに変化しながら現在に至っている。特に1960年代から1980年代頃にかけて、イノベーションに関わるステークホルダーとその相互作用をシステムとして捉え、このシステム自体を政策の対象とする考え方が広まったことが知られている。「新結合」という概念は、シュムペーター(塩野谷祐一/中山伊知郎/東畑精一 訳)『経済発展の理論(上)(下)』(岩波文庫、1997年)参照。イノベーション概念の歴史的な変遷については、ブノワ・ゴダン(松浦俊輔 訳、隠岐さや香 解説)『イノベーション概念の現代史』(名古屋大学出版会、2021年)が参考となる。

知的財産基本法第19条は事業者が知的財産を有効かつ適正に活用することができる環境の整備を国に対して求めているが、同条第2項は、「中小企業が我が国経済の活力の維持及び強化に果たすべき重要な使命を有するものであることにかんがみ、個人による創業及び事業意欲のある中小企業者による新事業の開拓に対する特別の配慮がなされなければならない」と定めている。

大企業がイノベーションの重要な担い手であるという仮説は古くからシュンペーターによっても指摘されている。J.A. シュムペーター(中山伊知郎/東畑精一 訳)『資本主義・社会主義・民主主義』(東洋経済新報社、1995年)参照。。

中小企業庁が2020年に設置した知的財産取引検討会において検討が行われ、2021年3月に報告書と知的財産取引に関するガイドライン・契約のひな型が公表されている。またスタートアップ企業について、特許庁及び経済産業省では、2020 年6月に、「研究開 発型スタートアップと事業会社のオープンイノベーション促進のためのモデル 契約書 ver1.0」を公表している。なお中小企業やスタートアップ企業と大企業との取引実態については、公正取引委員会「製造業者のノウハウ・知的財産権を対象とした優越的地位の濫用行為 等に関する実態調査報告書」(2019 年6月)、同「スタートアップの取引慣行に関する実態 調査報告書」(2020 年 11 月)」参照。

肥塚直人「オープン・イノベーション時代の共同研究契約」特許ニュース第15540号(2021年11月19日)で詳しく触れている。

この点について、肥塚直人「コーポレート・ガバナンスと経営戦略~持続可能なイノベーションと知的財産戦略~」(政策研究レポート)でも触れており、参照いただきたい。

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