コロナ自粛をめぐる対立はいかなる教訓として記憶されるのか?

2020/06/15 秋山 卓哉
日本社会
公共性

はじめに:コロナ禍を象徴する光景は?

本稿を執筆している5月下旬は一部地域で新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の第2波の兆候らしきものが見られるのは気になるものの、非常事態は収束に向かいつつある。コロナ対策の何が効いたのかはよくわからないが1、コロナの収束に伴いポストコロナをめぐる議論が活発になっている。

デジタルシフト(テレワークや遠隔医療、オンライン授業など)やその影響(日本型労働時間管理の変化、オフィスの削減、企業の地方移転、無人化・ロボットの導入、文書の電子化など)、マイナンバーや個人認証制度の普及、食文化・食事のスタイル(居酒屋など多人数がおしゃべりする会食への影響、パーテーションでの仕切り、テイクアウト・デリバリーなど)、国内・国際的な人の移動やインバウンド需要、グローバル化の行方や世界の協調、米中の対立・覇権争い、などなど。私たちの生活がどう変わるのか、経済はいつ回復するのか、国際政治経済はどこに向かうのか。「ニューノーマル(新常態)」と言われるくらいだから、正常化=ビフォーコロナへの逆戻りではないのだろうが、新しい社会がどの方向に向かうのかによって私たちの備え方は変わる。

本稿では数ある関心事の中からコロナを契機に噴出した公共的行動2をめぐる論争を取り上げたい。例えば、感染症対策のためなら各種自粛要請やロックダウンにより公権力(政府)による私権の制限が認めるべきか、自粛に従わない人や店舗は批判されて当然か、それとも彼らにもやむを得ない理由があったはずだと寄り添うべきか、といった公共的行動をめぐる論争が起きたわけだが、この論争に対する識者の意見は真っ向から衝突した。

私たちの意見も割れた。外出自粛要請に協力して人通りが消えた繁華街や患者を救うために奮闘する医療従事者、彼らへの感謝を示すブルーライトアップや拍手、はたまた休業要請にも関わらず(さらには店名の公表や休業指示を出されても)営業を続けるパチンコ店や店に並ぶパチンコ客、県境を越えて観光地を向かう長蛇の車列、医療従事者や患者に向けられた差別や過剰反応、正義感をこじらせた自粛警察たち。コロナ禍で展開される人間の行動を見て、やはり人って素晴らしい、日本はまだまだできると心を強くすることもあれば、なぜそんな愚かな行動をする人がいるのか、自分は我慢しているのになぜあの人たちは自分勝手な行動をするのか、不公平だ、と心がざわつくときもあった。

コロナを契機としてモメンタムを得る社会的変化がある一方、一旦は落ち着くが折に触れて思い出される教訓もある。デジタルシフトが前者の代表であり、公共的行動をめぐる論争は後者といえる。一定の制限はしばらく継続するが、緊急事態宣言の解除でひとまずこの論争は下火になるだろう。だが、感染症の蔓延や大規模な自然災害など日本が再び非常事態に直面したら、私たちは今回のコロナ禍と緊急事態宣言を「歴史の教訓」として振り返り、危機時の人々の行動を思い出す。そのとき私たちは人々のどんな行動を思い出すのか。本稿では、最初に公共的行動をめぐる論争を理解するための交通整理を行う。次にフレーミング(問題を認識するための枠組み)および歴史の教訓が政策決定に与える影響を検討し、コロナ後の市民の自由と政府による統制との関係を分析する。

市民の公共的行動をめぐる論争:市民の自発性を信用できる?できない?

まずは市民の公共的行動をめぐってどのような論争(市民の自由と政府による強制との関係、市民の行動への評価)が起きたか、振り返ろう。

日本経済新聞の論説フェローは、「『自由と秩序』の均衡をいかに図っていくかこそが、染後の令和日本に突きつけられている課題のような気がしてならない」という3。社会秩序を重視する強権的で監視型の国家のほうがコロナをうまく処理できるのか、それとも個人の人権を大事にする自由主義の国家なのかという問題が、コロナ後の国や社会のありようを考える上で重要になると述べた。

『サピエンス全史』の著者で歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、今回のコロナ危機で、「全体主義的な監視」と「市民の権限強化」のいずれかを選択するか、重要な選択に直面していると説く4。彼自身は全体主義的な監視ではなく、市民に力を与えることで、自分自身の健康を守り新型コロナの感染拡大を阻止する選択肢を選ぶ。政府が市民に科学的な根拠や事実を伝え、市民もそれらの情報を提供する政府を信頼していれば、政府が徹底した監視体制を敷かなくても市民は正しい行動をとれる、と彼は述べる。「市民に十分な情報と知識を提供し、自分で可能な限り対応するという意識を持ってもらう方が、監視するだけで、脅威について何も知らせないより、はるかに強力で効果ある対応を期待できる」というのがハラリ氏の考え方だ。

米国のギャラップ社が3月に実施した世論調査によると、欧州諸国では、ウイルス拡散防止に役立つなら自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわないと考える人の割合が多く、日本ではその割合がとても小さかった(イタリア、オランダ、フランス、イギリス、ドイツは7割以上が賛成で、日本は3割程度)5。この世論調査結果を見て、日本人は順法意識や公共心に富むという妄想を捨てよ、と説いた識者がいたし6、他方で欧米政治思想の専門家や海外の識者の中でも安易に公権力による統治を受け入れることを懸念する人たちもいた。その一人である金沢大学教授の仲正昌樹氏は、公衆衛生目的の監視や管理であっても「気を付けるべきは、対応策がエスカレートすることです。私たちは健康の話となると、政府が進める公衆衛生政策をさほど抵抗なく受け入れがちです。外交・安保といった、いかにもイデオロギーが絡みそうな政策に比べ、人々は権力に統治されやすくなる7」と政府の権力強化を無批判に受け入れることを諫めている。別の米国の識者も、コロナは公衆衛生だけではなく人権や民主主義も脅威にさらすとして、非常事態を理由に公権力が権限を拡大することに警鐘を鳴らし、健全な民主主義と権利を市民自ら守るよう訴える8

市民の行動への不信から政府による統制を支持する見解もある。経済学者の竹中平蔵氏は、欧米諸国は罰則を伴う外出禁止命令を実施しているにもかかわらず、日本の法律は罰則がないため効力が疑わしく、「危機意識のない国民は不要不急の外出を続けている」とし、コロナは「日本に「非常時に備える」という風潮がないことを反省するいい機会だと思います。この先も今回のような非常事態は起こりうるわけで、そのときにきちんと強い統制をしないと国民全員が困ることにな」ると警鐘を鳴らす9。別のコンサルタントは「企業はテレワークを渋り、働く親は子どもを学童保育や保育園に預ける。テレワーク中の親も子どもが家にいるのは負担だと愚痴る……。(中略)そして3月末から感染拡大が本格化しても、通勤電車は混んだままだった。テレビも旅歩きとバラエティー番組であふれている。政府も都道府県のトップも外出自粛を促しているにもかかわらず」と、日本人の危機感のなさと社会貢献意識の低さを指摘した10。その一方で、自粛に従わない(従えない)人たちを取材して、彼らの胸の内や窮状を積極的に取り上げる人たちもいた11

芥川賞作家の平野啓一郎氏は「『自分さえよければ』という生き方では、最終的には社会が壊れてしまう。もう格差社会や自己責任論ではいよいよ立ち行かないと思う。世界がいい方向に進むようなビジョンを一人ひとりが持つべきです。ディストピアが来るか、『悲惨だったけど少しはよくなったこともある』となるか、いまはその瀬戸際ではないでしょうか」と言う12。彼がわざわざこのように述べるのは「自分さえよければ」という生き方をしている人が少なからず存在していると感じられたからであろうし、 政府による強制ではなく市民の自律性に基づく社会の維持・実現には、一人一人の自覚ある行動が必要とのメッセージと読むこともできる。

世論も揺れた。当初緊急事態宣言に否定的だった世論は、緊急事態宣言賛成に転じ、むしろ宣言発令の遅さを批判するに至る。3月中旬の共同通信の世論調査では、73.5%が緊急事態宣言の発令には「慎重にするべきだ」と回答した13。それが、緊急事態宣言が7都府県に発令された後の世論調査では、75.1%が緊急事態宣言発令を「評価する」、80.4%が「遅すぎた」と回答した14

取り上げた意見はごく一部だが、およその論点は網羅されているだろう。このように感染症拡大防止という公共目的のため政府はどこまで権利の制限が可能で、また市民はどこまで善き行動が期待されるのか、識者の意見は割れている。議論の発端である緊急事態宣言が解除されたため、この論争は決着を見ないままひとまず凍結されることになりそうだが、火種自体が消えるわけではない。

自発的な公共的行動 VS 強制された公共的行動

われわれの意見がこのように割れるのはなぜか。その背後にある認識構造を理解するため、あえて市民の公共的行動を簡略化し序列表にしてみた(本来であれば何をもって公共的な行動とするかについて社会の同意の存在が必要だが、本稿ではこの同意がすでに存在するという前提で以下の検討を進める。また、接触機会を減らすための措置は感染症対策として合理的であると前提する15

①私たち自身の自発性に基づく公共的行動 > ②公権力から強制された公共的行動 > ③公権力から強制された反公共的行動 > ④私たち自身の自発性に基づく反公共的行動

①の私たち自身の自発的な公共的行動が強制されたそれよりも望ましく、対して、いくら自発性が重要な価値だとしても、自ら進んで反公共的な行動を選択する④よりも、強制されたものであるとはいえ②のほうが良いとする。仮に反公共的行動をとったとしても、政府が定めた法律が誤っていて仕方がなくそれに従わざるを得なかった場合(③)のほうが、自分から進んで反公共的行動を選んだ場合(④)よりは仕方がない面がある。

この序列表を前提としたとき、①が最善でありながら、④の行動を選択する人間が少なからず存在している(と感じる)ときに、私たちの心はざわつく。ただし、④を選択する人たちがなぜそう行動するのか、その捉え方によって私たちの評価は変わる。④の行動を選択する人にも様々な事情があるはずで、①を選択したくても生活困窮などが原因でそれがままならない人もいる。そう捉えれば④の人を責めるよりは、④の人が①を選択しやすくするための環境整備を政府や自治体に要求するかもしれない(もしくは、環境が整備されていないにもかかわらず④を責める言説が社会に存在すれば、その言説を批判する)。今回のコロナであれば、緊急事態宣言による自粛要請を受け入れるとしても休業補償や収入補償とセットであるべきとか、休業補償や収入補償が不十分にもかかわらず自粛に協力しない人を責めるのはおかしいとの主張につながる。

反対に、④を選択する人はそもそも①になる意思を持っていないと私たちが認識すれば、次善の策として②の政府による強制を受け入れる人も出てくるだろう。コロナの象徴的な光景の一つが、休業要請(店名公表・休業指示)されても営業を続けるパチンコ店と店に行くパチンコ客であった。自治体が営業を続ける店名を公表するとむしろ訪れる客が増え、「新型コロナに感染しても自分のせい」だから構わないという彼らの声も伝えられた16。報道の仕方の是非はともかく、営業を続けるパチンコ店の存在は一時期コロナの話題の中心となった。

全体として見れば、外出自粛や営業自粛に協力した市民や企業は多かったと思われる。人との接触8割減という政府目標に達しない地域が少なくなかったとはいえ、数十パーセント削減できたのは、市民や企業がテレワークや営業自粛に協力したからであり、件のパチンコ業界とて自粛に協力した店舗が圧倒的に多かったからこそ店名公表の対象が数店で止まったともいえる。その意味で、パチンコ店や客に関する報道での取り上げられ方はやや大げさだったとも言えるが、パチンコ店やパチンコ客の行動は軽率で自分勝手であると感じると、②の政府による強制に同意しやすくなる。

こうした人々の行動をめぐる認識の相違は、将来の非常時の政策の検討にいかなる影響を与えるのか。次にフレーミングや歴史の教訓と政策決定との関係性に話を移す。だが、その前に少し寄り道をして公共的行動をめぐる論争において抜け落ちている(または十分に取り上げられていない)と思われる重要な概念について補足したい。

公平なルールの条件としてのフリー・ライディングの防止

ある社会で公共性の名のもとに特定の政策が実施されるとき、それに不満を抱く人たちをどのように説得すべきか。不満側から見れば、どのような根拠を提示されれば納得しやすくなるだろうか。現実の私たちは、内容の是非にかかわらずルールだから仕方がない、と考えてルールに従うことが多いが、願わくば真っ当な根拠を持つルールに従いたい。感染症対策も経済活動の自由も移動の自由も弱者の救済もどれも個別に見れば満たされるべき価値を持っている。しかし、それらを同時に等しく満足させられないとき、いかなる基準をもとに優先される政策を選定すればいいのか。また、満たされなかった価値を支持する不満側はどのような根拠が示されれば納得できるだろうか。

法哲学者の井上達夫氏は、ルールの公正さの要件として、①フリー・ライダーの防止、②ダブル・スタンダードの防止、③既得権益と権利の区別、④集団的エゴイズムの抑制を挙げる17。ここでは①のフリー・ライダーの防止に注目する。フリー・ライダーとは、ある制度やルールが提供する便益を享受しているにもかかわらず、その制度やルールの維持に必要な負担を他者に転嫁する主体を指す。個人の合理的行動に任せると、誰もが非協力戦略を選択するインセンティブを持っているため「囚人のジレンマ」が発生する。フリー・ライダーが便益を享受できるのは、他者が制度やルールの維持するコストを負担することで自分はその負担を免れるからであり、それゆえフリー・ライディングは不正なのである。

感染症対策とはいえ、本当は誰もが進んで自粛したいわけではない。しかし、非協力を放置してはいつまで経っても感染症は封じ込められない。それゆえ、不正に他者にコストを転嫁させるフリー・ライディングは防止されなければならない。自粛する人が自粛しない人を見て不公平感を抱くのは、コロナ収束のため自分たちは我慢するのに、コロナ収束の恩恵は自粛しなかった人間にも等しく及ぶためである。自由はできるかぎり制限されるべきではない。にもかかわらず制限されなければならないとすれば、どのような根拠で制限が正当化されるべきか。接触機会を最小化するという感染症対策上の理由や、人の生命・健康の保障という理由のほかに、自粛に協力する人だけにコストを負担させないという公平性の確保も理由の一つになると考えられる18。欧州の民主主義国で一定の権利制限が容認されるのは、公平性の観点からそれを支持する人もいるためではないだろうか。

他方、フリー・ライディングの防止から税金による休業補償が正当化されよう。自粛に従わない人がいても、それがただちに不当な行動とは言い切れない場合もある。すべての企業は経済活動をする自由を持っているが、緊急事態宣言下で経済活動を続けられる企業と休業せざるを得ない企業が存在する。そのため、休業による犠牲はすべての企業が均等に負うのではなく、特定の企業や業界により重くのしかかる。休業によって、休業しないよりも早期にコロナを収束させられればその恩恵は市民や企業全体に広く行き渡る。にもかかわらずそのコストが特定の業界に集中するのを放置すれば、今度は市民がフリー・ライダーとなる。現実には財源の限界があるのでコストのすべてを補てんするのは難しいかもしれないが、概念的に休業補償が正当化されるのは、生活保障などの福祉的な理由だけではなく、一部の者だけに不当にコストを負担させてはならないという公平性確保も理由の一つになると考えられるのである。

フレーミングと歴史的教訓が政策決定を左右する

コロナ禍における人々の公共的行動をめぐって様々な意見が出てきたが、こうした認識の相違が将来の政策に与える影響を考えてみたい。

ある問題が問題であると認識されるだけでは、解決に向けた政策選択肢の検討は自動的にスタートしない。問題をどのような枠組みで捉えるかという「フレーミング」次第によって、具体的な対応が全く変わってくるため、政策決定を研究する公共政策学においてフレーミングが非常に重要であると理解されている19。たとえば、小学生の学力共通テストの成績が低下しているとき、それを教員の教育能力の低下の問題として捉えるか、家庭での教育ができていない問題として捉えるかで小学生の学力低下という問題への処方箋は異なる。

どのようなフレームが設定されるかは様々な要因の影響を受けるが、その一つが「歴史の教訓」である。過去発生した歴史的なイベントやそこで得た教訓をもとに、現在の問題を解決するための政策が決定される。

一見すると歴史的事実は客観的な検討材料のように感じられるが、先例になりうる歴史的事実はたくさんあるため、どの歴史的事実を現在の問題のアナロジーとして選択するかは、政策決定者に裁量の余地がある。Aという歴史的イベントを参照する人もいれば、Bという別の歴史的イベントを参照する人もいるだろう。今回のコロナでも、政府による権利制限と戦前日本の軍国主義を結び付けて考える人は緊急事態宣言による政府権限の拡大に警戒するし20、デジタル技術を駆使した台湾や韓国のコロナ対策を教訓に選ぶ人はデジタル技術活用に伴うプライバシー侵害は容認できる。

外交政策研究では、歴史の教訓と教訓に由来するフレーミングが政策決定を大きく左右したとする一群の研究がある。1956年に発生したスエズ危機(第2次中東戦争)に英国のイーデン内閣はエジプトの領土であるシナイ半島に軍事介入というリスクの高い政策を選択したのだが、これはエジプト大統領ナセルのスエズ運河国有化宣言などの一連の民族主義的な政策をミュンヘン危機21のアナロジーで理解したためと分析されている22。イーデン内閣はスエズ危機をミュンヘン危機やナセル大統領をヒトラーになぞらえることで(そうなぞられるべき必然性はなかったにもかかわらず)、断固たる措置が必要と判断、リスクの高い軍事介入という選択肢を決定したのであった(結果としては、英国はスエズ運河の維持という所期の目的達成に失敗した)。

1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件23では、カーター政権がリスクの高い人質救出作成を決行し、失敗した。当時、政権内のヴァンス国務長官はイランとの外交交渉による解決を主張し、ブレジンスキー国家安全保障問題担当大統領補佐官は軍による救出作戦を主張した。二人の対立の背景には、それぞれが依拠する歴史のアナロジーの違いがあったと分析されている24。ヴァンスは米国の情報収集船プエブロ号が北朝鮮に拿捕された際に外交でそれを取り戻したこと25のアナロジーで人質事件を捉えていたから、軍事力よりも外交交渉のほうが人質救出の確率が高いと捉えていた。他方、ブレジンスキーは、人質事件を、ウガンダのエンテベ空港で発生したイスラエル航空機ハイジャック事件で、イスラエルが奇襲攻撃で人質の救助に成功した事例26とのアナロジーで捉えていた。そのため、軍事力が人質救出の有効な手段であると考えたのであった。

外交政策と国内政策の違いはあるが、改めて強調したいのはフレーミングが政策決定に大きな影響を与えること、そしてフレームの設定はしばしば歴史の教訓を参照にして行われることである。ある歴史的な事件をどう記憶し後世にそれをどう持ち出すかで、将来直面する問題のフレーミングと政策選択肢のあり方が変わってくるのである。

おわりに:どの光景をコロナの教訓として選択するか?

本稿ではコロナを契機に噴出した公共的行動をめぐる論争の整理をしたうえで、政策決定がフレーミングや歴史の教訓の使われ方によって大きく左右されることを説明した。もっとも、コロナが収束に向かい緊急事態宣言が解除されたことで、(第2波が来るか気になりつつも)ひとまずこの論争も収まっていくだろう。

そもそもここまで公共的行動をめぐる論争が激しくなったのは、緊急事態宣言が自粛要請中心だったことによる副作用とも考えられる。自粛要請にとどまったことにより最終的な判断が私たち個人に委ねられたからこそ、かえって個々人の良識や自覚が問われる構図になってしまったといえる。

外出自粛要請に応えて人通りが消えた繁華街や患者を救うために奮闘する医療従事者、彼らへの感謝を示すブルーライトアップ、休業要請にも関わらず(さらには店名の公表や休業指示を出されても)営業を続けるパチンコ店や店に並ぶパチンコ客、県境を越えて観光地を向かう長蛇の車列、医療従事者や患者に向けられた差別や過剰反応、正義感をこじらせた自粛警察たち。今回のコロナを象徴する光景は様々である。

将来再び市民の自由を制限しなければならない非常事態が発生したとき、問題のフレーミングがどのように行われ、今回のコロナ禍はいかなる歴史の教訓として持ち出されるか。人々が自粛に自発的に協力した出来事だったと思い出されれば、次の緊急事態宣言でも自粛要請中心かつ人々の自発的行動をより促すための支援策の拡充に軸足が置かれるだろう。

反対に、今回のコロナはもはや市民の自発的な公共的行動には期待できないという教訓だった、と振り返られるなら、市民の自発性ではなく政府による強制へとシフトするだろう。次の非常時にどの光景が歴史の教訓として選択されるかで、市民の自発性に期待するか、政府の強制を容認するか、いずれの方向に進むかが規定されるとすれば、今回のコロナ禍がいかなる歴史の教訓として記憶されていくのか気に留めておかなければならない。

1 米国の外交誌Foreign Policyは、日本の政策はすべて誤っているように見えるにもかかわらず(人口のごく一部しかPCR検査をせず、ソーシャルディスタンスが中途半端、国民の過半数が政府の対応に不満))、奇妙にも(weirdly)すべてが正しい方向に進んでいるように見えると評した。William Sposato, “Japan’s Halfhearted Coronavirus Measures Are Working Anyway,” Foreign Policy, May 14, 2020,
https://foreignpolicy.com/2020/05/14/japan-coronavirus-pandemic-lockdown-testing/
2 本稿では公共的行動を、社会で解決すべきであると認識された問題の解決を目的とした個人または集団の行動と定義する。
3 「『染後国家』をどうつくるか」『日本経済新聞』(朝刊)2020年4月27日。
4 「全体主義的監視か 市民の権利化 コロナ後の世界へ警告 歴史学者ハラリ氏寄稿」『日本経済新聞』(朝刊)2020年3月31日。
5 (株)日本リサーチセンター「ギャラップ・インターナショナル・アソシエーション『コロナウイルスに関する国際世論調査』30か国グローバル調査 調査結果」
https://www.nrc.co.jp/report/200409.html
6 深川由起子「【新型コロナ】日本よ、「アナログ」「公共心」「技術」の“3妄”捨てて台湾・韓国に学べ」『ニュースイッチ』2020年5月5日、
https://newswitch.jp/p/22130
7 「(インタビュー)疫病と権力の仲 新型コロナ 金沢大学法学類教授・仲正昌樹さん」『朝日新聞』2020年4月2日(朝刊)。
8 パトリック・ガスパード「コロナ危機に拡散する『独裁ウイルス』を許すな」『ニューズウィーク日本版』2020年4月22日、
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/04/post-93210_2.php
9 竹中平蔵「このままいけばコロナ後、日本が世界の先端に立てるかもしれない」『プレジデント』2020年5月29日号、
https://president.jp/articles/-/35411
10 石野シャハラン「コロナ禍で露呈した『意識低い系』日本人」『ニューズウィーク日本版』2020年5月2日、
https://www.newsweekjapan.jp/tokyoeye/2020/05/post-21_1.php
11 清義明「コロナ自粛と「意識低い系」たちの反抗―不要不急は人それぞれ 小さな生活の自己決定権をめぐる争いの現場―」『論座』2020年5月4日、
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020050300005.html?page=1
12 内田正樹(Yahoo!ニュース特集編集部)「作家・平野啓一郎が見通す「新型コロナの2020年代」――『自分さえよければ』という生き方では社会が壊れる」2020年5月2日、
https://news.yahoo.co.jp/feature/1676
13 「緊急事態宣言「慎重に」73%」『西日本新聞』(ウェブ版)2020年3月16日、
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/592366/
14 「「国が休業補償を」82% 世論調査、内閣支持率5.1ポイント減、40.4%」『西日本新聞』(ウェブ版)2020年4月14日
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/600289/
15 今回のコロナ同様、コロナウイルスを原因とするSARSも根治可能な治療法が確立されておらず、有効な予防対策は患者の早期探知と即時隔離、接触者の自宅隔離、手洗い・うがい、マスク着用、免疫力の強化、人混みへの外出を控えること以外にない。国立感染症研究所「SARS(重症急性呼吸器症候群)とは」
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/414-sars-intro.html
16 「『感染しても気にしない』 店名公表後も営業のパチンコ店に長い列 福岡」『毎日新聞』(ウェブ版)2020年4月30日、https://mainichi.jp/articles/20200430/k00/00m/040/095000c
医療資源はコモンプール財だから、利用者が一定量以内であれば全員が便益を享受できるが、利用者が増えると混雑費用が増加し、やがて上限に達すれば(医療崩壊が起きれば)利用できない人が現れる。そのため、仮に自分一人しか感染しないとしても、自己責任の一言では済まされないのではないだろうか。
17 井上達夫『法という企て』東京大学出版会、2003年、18-23頁。
18 パチンコの業界団体のひとつである岐阜県遊技協同組合が強いメッセージでパチンコ店に休業要請したのも、営業を続けるパチンコ店のフリー・ライディング問題を批判したものと理解できる。同組合は、「未だ営業を続けているホールは、自らが社会的加害者であるのみならず、痛みに耐え懸命に営業自粛している同業他社に計り知れないダメージを与えている」と営業を続ける店舗を批判した。「パチンコ店『営業継続自体が社会悪となった』 業界団体、苦渋メッセージの真意「休むことにこれだけ意味があるんだと…」」『JCASTニュース』2020年5月1日、
https://www.j-cast.com/2020/05/01385302.html?p=all
19 秋吉貴雄『入門公共政策学 社会問題を解決する「新しい知」』(Kindle版)中公新書、2011年、位置No.584。
20 たとえば、三浦瑠麗「新型コロナで緊急事態宣言 「いまは戦時だ」が招く未知のコスト」『論座』2020年4月10日、
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020040800013.html
他方で政治的文脈が変われば戦時へのアナロジーが支持拡大につながることもある(ため、支持拡大を狙って積極的に戦時に例えることにもつながる)。危機に際して大統領の支持率が急上昇するアメリカでは(旗下集結効果)、この効果に期待してトランプ大統領は戦時のアナロジーを使ったといえる(実際には期待ほど支持率は伸びなかった)。梅川健「「戦時大統領」としてのトランプ:レトリックと旗下集結効果」東京財団政策研究所ウェブサイト、2020年5月1日、
https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3400
21 ミュンヘン危機とは1938年にヒトラーのドイツが、当時ドイツ系住民が多数居住していたチェコスロバキアの地域をドイツ領に編入しようとした事件。イギリスをはじめ当時の国際社会は戦争回避のためヒトラーの要求を受け入れた。今日ではこの対応は「宥和政策」と呼ばれ、ヒトラーのような拡張主義的な人物には宥和政策は不適切で、断固たる対応ができなかったためにより悲惨な第二次世界大戦を招いたと評価されている。
22 土山實男『安全保障の国際政治学―焦りと傲り―』有斐閣、2004年、150頁。
23 1979年のイラン革命で、亡命したイランの元皇帝を米国が受け入れたため、それに反発したイランの学生がテヘランにある米国大使館を占拠、外交官たちを人質にした事件。人質解放の外交交渉が膠着したため、米国国内の批判の高まりもあり、カーター政権は米軍による人質救出作戦を実施するが、作戦に使用したヘリの故障や輸送機とヘリの接触事故により作戦は失敗した。その後、外交交渉により人質は解放された。人質事件の発生から解放まで444日が経過した。
24 土山實男『安全保障の国際政治学―焦りと傲り―』有斐閣、2004年、150頁。
25 1968年に発生した北朝鮮による米国海軍の情報収集船プエブロ号が攻撃・拿捕された事件で、プエブロ号事件と呼ばれる。米国が北朝鮮側のスパイ活動容疑などを認め謝罪するかたちで外交的に解決された。
26 1976年に発生したハイジャック事件。エールフランス機がパレスチナ解放人民戦線のテロリストにハイジャックされ、ウガンダのエンテベ空港に着陸。多数のイスラエル人乗客が残されたが人質解放交渉は難航したため、イスラエル軍による人質救出作戦を実施した。

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