1.問題の所在
食料安全保障に対する関心が高まっている。国際情勢が不安定化する中、ロシアのウクライナ侵攻に端を発した小麦価格の高騰が注目されたことも記憶に新しいが、本年は25年ぶりに改正された食料・農業・農村基本法が、食料安全保障を柱の一つとして明確に位置づけたことでも注目を集めた[ 1 ]。25年前と比べて、気候変動による食料生産の不安定化、世界的な人口増加等に伴う食料争奪の激化、国際情勢の不安定化等が進んだことも同法改正の背景にあると言われている。
食料安全保障についての定義はさまざまなものがあるが、食料・農業・農村基本法によれば食料安全保障とは、「良質な食料が合理的な価格で安定的に供給され、かつ、国民一人一人がこれを入手できる状態をいう」とされている(第2条第1項)。また、しばしば紹介される定義として、国連食糧農業機関(Food and Agriculture Organization of the United Nations:FAO)は「全ての人が、いかなる時も、活動的で健康的な生活に必要な食生活上のニーズと嗜好を満たすために、十分で安全かつ栄養ある食料を、物理的、社会的および経済的にも入手可能である時に達成される状況」であると定義している[ 2 ]。
国際法上、意図的に民間人の生存に不可欠なものを奪う行為は禁止されているものの[ 3 ]、食料へのアクセスを阻害しうる方法はさまざまなものが存在しており、例えば日本を含む食料輸入国では各国の輸出規制や価格高騰の影響も強く受けることが知られている。また農業分野における技術革新が注目される中、農業に不可欠な種子や肥料[ 4 ]、その他技術等に係る知的財産権によってその利用が制限される可能性も否定できない。伝統的な議論においても、食料安全保障の確保と知的財産権保護の要請は時として対立する利害として捉えられ、過去に行われてきた国際的な議論でも主として先進国と途上国とがしばしば対立してきたことが知られている。
本稿では、食料安全保障と知的財産制度の関係についてこれまでの議論を概観しつつ、日本の食料安全保障や食品・農業ビジネスを考える上で重要となるルール形成や知的財産戦略のあり方について整理を行う。
[ 1 ]例えば日本農業法学会『食料・農業・農村基本法改正の法学的検討』(農山漁村文化協会、2024年)、奥原正明編『農林水産法研究第3号臨時増刊』(信山社、2024年)等を参照。
[ 2 ]FAOも時代によって多少異なる表現を用いているが、国内の議論にも参照されているFAO, The State of Food Insecurity in the World 2001.における定義を紹介した。
[ 3 ]1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書Ⅰ)の第54条は、生存に不可欠な物の保護について定めており、「戦闘の方法として文民を飢餓の状態に置くことは、禁止する」(同第1項)と規定し、文民の生存に不可欠な物を攻撃、破壊、移動、利用制限することは動機を問わず禁止されるという趣旨の規定を設けている(同第2項)。
[ 4 ]肥料については経済安全保障推進法に基づいて、国民の生存に必要不可欠な又は広く国民生活・経済活動が依拠している重要な物資(特定重要物資)に指定されている。
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